エリザベートの生涯

おてんばな幼少時代

エリザベートはバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家に、

1837年12月24日のクリスマスイブに生まれた。

うまれたときからすでに前歯があり、それは幸運のしるしだった。

愛称はシシィと呼ばれ、牛や馬、羊などの動物に囲まれ、

乗馬や木登りが得意な、野性味あふれる女の子だったという。

運命の出会い

自由奔放に育ったシシィだが、

保養地バートイシュルで運命の出会いを果たすことになる。

若き皇帝フランツ=ヨーゼフとの出会いである。

シシィの母が皇帝の母と姉妹だったことで、

本来はシシィの3歳上の姉ヘレーネが皇帝とのお見合いに臨むこととなった。

頭数を合わせるためだけにつれてこられたシシィだったが、

フランツ=ヨーゼフは本命のヘレーネではなく、妹のシシィの方を見染めてしまったのだった。

皇帝との結婚を泣いて嫌がったシシィだったが、

皇帝の求婚を断るわけにもいかず、周囲に説得され、

また、フランツ=ヨーゼフの魅力にも次第に惹かれ、結婚にいたった。

宮廷生活という牢獄を離れさすらいの旅へ

ヨーロッパの宮廷では非常にめずらしい恋愛結婚を果たしたといわれる

フランツ=ヨーゼフとエリザベートだったが、

シシィにとって結婚生活は甘いものではなかった。

お妃教育をまったく受けていなかった彼女には、厳しい礼儀作法、

規律正しい生活がたたきこまれた。

自由を愛し、自然にのびのびと育ってきた彼女にとって、宮廷生活は

拷問のようだった。

息苦しい宮廷生活により心身のバランスを失った彼女は、医者に転地療養をすすめられる。

シシィは療養を口実にウィーンを離れ、各地を転々とする放浪の旅を続けた。

「美」をもとめて

窮屈な宮廷生活。姑ゾフィーとも対立し、孤独だったシシィは、自らの美に没頭する。

もともとの美貌にさらに磨きをかけていった。

とくにくるぶしまであった長い髪の手入れには毎日3時間かけており、

「私は髪の奴隷」とまで言っていたほどだった。

ダイエット法の研究にも余念がなく、体操器具をつくらせ、

何時間も体操に励んだ。

自らの美が唯一の自信であり、よりどころであったのだ。

彼女はその美しさを武器にした。

オーストリアの支配に反感をもつ人々も彼女の美貌の前に抵抗心を失った。

落日のハプスブルクと深まる孤独

世紀末、ハプスブルク家の支配にも陰りが見えていた。

民族主義の高まりから、独立戦争がたえなかった。

また、エリザベートの身辺にも悲劇が続く。

息子ルドルフがマイヤーリンクで心中。

皇太子であるルドルフは、母と同様リベラルな考えをもつ人物だった。

保守的な皇帝とは反発が続き、母は旅にでてばかり。

孤独を深めたルドルフは死を選んだ。

彼女は息子を理解してあげなかったことを激しく後悔し、

以後、生涯喪服しか身に着けなかった。

暗殺と死による救済

息子を失ったエリザベートはますます放浪の旅をつづけるようになった。

放浪先のスイス、ジュネーブにて、

船に乗船しようとしていたところを、

無政府主義者のイタリア人、ルイジ・ルケーニによって暗殺。

1989年9月10日。60歳だった。